第26回 お江戸さるき会
第26回お江戸さるき会
蒸し暑い8月の晦日に「板橋宿」をさるきました。
ツクツクボウシが鳴いていて「夏の終わりを告げているんだなぁ」と悠長なことをつぶやきながらも
20名のメンバーが板橋駅の東口に集合。天気予報は曇り時々晴れ。既に蒸し暑い。
まずは徒歩50歩にも満たないすぐ脇の近藤勇の墓へ。
この永倉新八の手によって建てられた。
土方歳三は1869年、函館五稜郭外で流れ弾に当たり34歳で散った。多摩で薬売り行商から新撰組副長となり近藤勇の右腕となった。その後戊辰戦争で旧幕府軍指揮官として「蝦夷共和国」軍事治安部門責任者として軍才を揮う。
夢は「武士よりも武士らしく。そして近藤勇を大名にする」
永倉新八は松前藩上屋敷で生まれた松前藩士。脱藩して新撰組二番組組長となり、池田屋事件では沖田、藤堂たちとともに戦った勇士。晩年、北海道大学の剣道部の指導もしたが大正4年、虫歯が原因で骨膜炎にて死去。77歳。「新撰組
顛末記」を遺す。
そして、近藤勇。新撰組局長として徳川幕府に尽くした人生だった。しかし新政府から捕縛され総督府があった「板橋宿」まで連行され板橋刑場にて斬首。首は三条河原で梟首(きょうしゅ)後行方不明となっている。武士となって10か月、反逆者の汚名をきせられた35歳。
けやきからかなり北へ歩いて前田藩下屋敷跡の加賀公園にやってきました。
21万余坪の地で金沢兼六園の7倍とか。公園は屋敷内庭園にあった築山の跡。
明治から終戦まで石神井川の水を利用しての火薬製造所/東京第二陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)板橋製造所があった。
セミの声とともに黒くてイキイキした蚊もたくさん!!
この辺りは「平尾宿」現在は板橋宿不動通り商店街。
脇にずれて「東光寺」
宇喜多秀家
父の病死後、わずか10歳で家督を継いだ。秀家の秀は秀吉より与えられ、前田利家の娘、豪姫を正室に迎える。
1590年の小田原攻めでは水軍を率いて参戦、岡山城の改修工事や近世的城郭構想など、のちの岡山発展の基礎を築いた。1598年秀吉から「五大老」の一人に命じられる。が、8月秀吉没。翌関ヶ原の戦いで17000を率いて西軍最大の
戦力となるも小早川秀秋の裏切りによって宇喜多勢は壊滅。薩摩国の島津家を頼って落ち延びたが1603年、家康のもとへ二人の息子(秀高、秀嗣)とともに身柄を引き渡される。豪姫は兄、前田利長のもとに戻される。
その利長や島津の懇願により死刑は免れ八丈島に流され約50年後83歳で没する。(1655年。1625年という説も)
明治になって子孫がこの墓を建立。
観明寺(真言宗)には12世紀ころの聖観音菩薩像があり、加賀藩下屋敷から遷された稲荷社と赤門(通用門)があります。
クーラーの効いた「いたばし観光センター」で休憩を兼ねてガイドの方の説明をちゃんと聞く!
板橋宿
中仙道六十九次の第1宿。上宿、仲宿、平尾宿に分かれる。南北に広がり、往還の長さ約2,2㎞、うち町並み地は1,7㎞
本陣は仲宿に、脇本陣は各宿に1軒。旅籠は54軒。飯盛女150にんまで公許。
☟またまた脇に入って
文殊院(真言宗)
遊女の墓があり、遊女の守護と言われる「奪衣婆」も閻魔様と並んでおりました。
新宿のそれと比べると小ぶりで可愛げがあるなどと・・!!
☟文殊院延命地蔵堂
皆さん、膝だの腰だの肩だのと木槌のようなもので叩いていました。
仲宿商店街の最北が石神井川に架かる「板橋」。日本橋から二里二十五町三十三間。10,642km。