東京朝倉同窓会

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ふるさとの遥かなる歴史に思いをはせて~朝倉橘広庭宮(朝倉宮)~

 掲示板にアップされた『山田堰と百人一首』の文章にインスパイアされ、朝倉の地が歴史書にどのように描かれているか数冊の本を読んでみました。

 「斉明天皇が造営されたと言われる朝倉橘広庭宮が朝倉の地にあった」と「甘木市史」★に載っているのを発見しました。

 日本書紀によれば、歴史上初めて朝倉の地に天皇が来られたのは、大化の改新後で、西暦661年、当時の天皇は第37代斉明天皇という女帝でした。斉明天皇は、後の天智天皇と天武天皇になる中大兄皇子と大海人皇子の母でした。(斉明天皇は重祚と言い二度目の天皇、前回は第35代皇極天皇)朝倉に来た理由は、当時の朝鮮半島に存在した百済が新羅と唐に滅ぼされ、その遺臣から出兵を依頼された事です。朝鮮半島への出兵のため、天皇の在所に選ばれたのが朝倉の地とのことですが、選ばれた経緯まではわかりませんでした。出兵先は朝鮮半島であり、その前線基地の那之津(博多)に遠く、謎のようです。但し、筑後川沿いに在所を設けることで、移動の便の良さが考慮されたという説もあります。橘広庭宮については高知県との説もあるようですが、朝鮮半島との関係性とその後の警備体制や砦を福岡に作った事を考えると福岡県にあった事が自然に感じられます。しかし何故、橘広庭宮という名前かは不明でした。

 余談ですが万葉集の和歌で有名な額田王も飛鳥から同行され、朝倉に来られたそうです。また、日本として初めて外地で戦った、この戦いは『白村江の戦い』と呼ばれていますが、惨敗しその後の大陸からの攻めを恐れて配置された警備隊が防人(さだまさしさんの歌の題材)であり、砦が水城だそうです。

 斉明天皇は朝倉の地で661年の旧暦7月24日に突然亡くなり、それを朝倉山(どこか不明)から鬼が見ていたという伝説もあるそうです。『白村江の戦い』は中大兄皇子が指揮して戦ったそうですが、敗れた中大兄皇子は飛鳥から近江大津宮に667年に遷都し、天智天皇として即位しています。

 その後に起こる壬申の乱を経て天武天皇が即位し、身分制度・法令の整備、史書編纂と国の体裁を整えていきます。大陸の脅威を体感し、国の体制(律令政治)を整える機会になったのが朝倉由来と言っても良いかと考えました。

 夏休みの自由研究のつもりで図書館に行き、ふるさとの史実を自分なりに読み解いてみました。船橋の図書館でもふるさとの事を調べられる事に気づき面白かったです。更に、下記4冊の本でも記載内容は異なる点もあり、歴史本を読み比べる事の意義も感じられた夏の自由研究でした。

皆さんもふるさとだけでなく、いろんな事について「自由研究」いかがでしょうか?

                                  空閑 秀二 (38回生)

出典

 ★「甘木市史 上巻」 甘木市史編さん委員会 (株式会社ぎょうせい)  ※朝倉橘広庭宮の所在についての記述

「天智と天武日本書紀の真相」 関 祐二 (小学館)

「地図でスッと頭に入る古事記 日本書紀」 監修 瀧音 能之 (昭文社)

「いっきに学び直す 日本史 古代・中世・近世 教養編」 安藤 達郎 (東洋経済新報社)